『はじめてのベルクソン』とは
どのような本か
話を私の読書体験に戻そう。
ベルクソンの言葉を借りるなら、
私は『世界は時間でできている』を
読むことで、変容した。
そういえば、
ベルクソンはこうした変容は、
ちょっとやそっとのことでは起こらず、
重大な決断、
時間のかかる決断でこそ起こると言う。
つまり、
私が一年という歳月をかけたことには
意味があったのだ。
いったい時間とは何か、
我々の意志決定はどのようになされるのか、
その問いに向き合い続け、
ベルクソンを読み抜くことで、
私は変容し、
ベルクソンの思想を受け入れられる
程度になったのである。
だが、さすがに時間がかかったし、
内容もかなり難しかった。
だから、人に薦めたいが
(もちろん様々な場所で薦めたが)、
そう気軽にはオススメできなかった。
その衝撃は落とさずに、
それでいて親しみやすい本はないだろうか、
そう思っていた矢先、
同じく平井靖史による新書『はじめてのベルクソン』が
刊行されたのである。
『世界は時間でできている』が、
ベルクソンの思想をベースにしながら、
時間や進化といったテーマごとに論じていく
横割り型なのに対して、
本書『はじめてのベルクソン』では
べルクソンの主著ごとにその内容が
紹介されていく縦割りである。
それぞれの良さがあるのだが、
『はじめてのベルクソン』の方が、
ベルクソンの足跡と共に、
読者が進めるため分かりやすい。
ベルクソンの主著4冊
『はじめてのベルクソン』の主たる
チャプターにもなっているベルクソンの主著とは、
『意識に直接与えられたものについての試論』、
『物質と記憶』、『創造的進化』、
『道徳と宗教の二源泉』の4冊である。
それぞれを簡単に紹介しておこう。
学位論文にしてデビュー作である
『意識に直接与えられたものについての試論』
(1888年)は、先述した、
意志決定の過程と変容が詳しく論じられている。
ベルクソンが批判対象としている
概念化の自明視は、
言語化を過度にありがたがる現代にも有益だ。
代表作でもある
『物質と記憶』(1896年)のテーマは、
感性や感覚、クオリアだ。
生命体(特に人間)は、
いったいどのように感性(何かに対するクオリア)を
手に入れたのか。
カレーライスを食べて「おいしいな」と感じたり、
夕焼けを見て「赤くて綺麗だな」と
感じたりする、
そういう「感性・感じ」だ。
というのも、
きっと石や植物はそういう感性を
持っていないだろう。
ということは、
人類は進化の過程のどこかで、
感性を手に入れたのである。
ベルクソンは、
その根源を「時間」に見出す。
赤い光を例にとってみよう。
赤色の光は、
一秒間に約400兆回も振動している。
ところが、
我々は400兆回の振動を見極められない。
というのも人間の視覚は、
およそ0.2秒より短い間隔で起きる変化を、
捉えられないからだ。
例えば、
映画は静止画を高速で連続させているだけだが、
我々には一続きの運動として見える。
同じように、赤色の光を構成する膨大な振動も、
全部を捉えることはできない。
では、その捉えきれない分はどうなるのか。
ベルクソンはそれこそが
「赤いという感じ(クオリア)」になると考えた。
こうした余剰分をひとまとめ(凝縮)にして、
感性に変換する説を「凝縮説」といい、
『物質と記憶』の重要なテーマとなる。
……と、いまさらりと説明したが、
よく分からなかったかもしれない。
それは私の説明が拙いこともあるが、
あまりにも常識から離れているためだ。
いかに革新的な考えかを腹落ちするためには、
ぜひ本書をじっくり読んでほしい。
三冊目であり、
ノーベル文学賞受賞理由の中心となった
『創造的進化』(1907年)では、
ガラリとテーマが変わって、
なんと生命の進化を取り扱う。
鳥が飛べる、蜂が毒針を持っている、
人間が二足歩行できるなど、
生物は様々な特徴を持っている。
環境に適応するために進化したと説明されると、
そういうものかと納得してしまうが、
よく考えてみてほしい。
この世に鳥(飛ぶ生き物)が
一切存在していない段階で、
飛ぶという特徴を発現させるという
進化の革新性は、
あまりにもすごくないだろうか。
ベルクソンは、
こうした生命の跳躍を、
生命の時間感覚から解き明かすのである。
最後の主著となる
『道徳と宗教の二源泉』(1932年)は、
タイトルの通り、道徳と宗教を扱う。
第二次世界大戦の足音が聞こえてくる頃、
人間社会にはなぜ道徳と宗教が生まれたのかを探る。
面白いのは、
人間個人の責任を完全には個人に帰さず
、社会の常識に広げて論じる点だ。
ここで著者は、
ベルクソン哲学が解き明かす
「社会地形」という強力な概念を提示する。
私たちが生きる社会の空気、常識、
不文律といったものは、
知らぬ間に私たちの歩行を方向づけている、
見えない「地形の窪み」のようなものである。
私たちが「自らの意志で、
社会のルールに従っている」と思っているとき、
実際はただその地形の窪みに向かって、
ボールが坂を転がり落ちるように行動している。
喩えるなら、
重力に押し戻されているだけなのだ。
『二源泉』では、
この固まった社会地形(閉じた社会)の境界線を突破し、
真の人類愛(開かれた社会)へと
非連続に「跳躍」するためには、
理屈や対話ではなく、
自らの全人格をもって新たな情動を体現する、
例外的な個人の出現と「共鳴」が必要であると説く。
以上がベルクソンの主著
(そして『はじめてのベルクソン』)の概略である。
さいごに
『はじめてのベルクソン』は、
以上のようにベルクソンの主著に沿って、
ベルクソンの思想を親しみやすく語る。
著者自身が新書らしく、
読みやすくするために苦心したと語っている通り、
身近で楽しい例の提示、
テーマの絞り込み、
現代の知見も織り交ぜての解説が徹底されており、
とにかく分かりやすい。
だが、
ベルクソンの革新性は全く損なわれておらず、
私が『世界は時間でできている』で体験したような、
変容をきっと味わってもらえるだろう。
そのポイントは、
ここまで述べてきたようなベルクソンの
思考のスケールだろう。
意志決定のようなミクロから、
社会や進化といったマクロにまで、
自在に拡大・縮小する。
それが読者に変容を促すのである。
余談だが、
私は7月に空海に関する著書を刊行し、
その記念対談として、
お相手を平井さんにお願いした。
それは、ベルクソンと同じく、
空海(仏教)も、
世界や生命のスケールを拡張・収縮することで、
世界の捉え方を変えようとしたからだった。
ベルクソンは、
宗教をシステマチックなものとして論じているが、
本書を通して出会えるベルクソンの
スケールの大きさ(細やかさ)には、
どこか敬虔な気持ちすら抱いてしまう。
私の中で、
仏教とベルクソンは繋がっている。
通り一遍の情報や、
わずかな時間で摂取した情報からは、
感動も敬虔な気持ちも得られない。
だから願わくば、
本書は一度で読み切ろうとせず、
じわじわと変容しながら、
たっぷり時間をかけて読んでもらいたい。
それだけの時間を投じる価値がある
一冊なのは間違いない。
あなたがどのように変容するかは、
全く未知数ではあるが。