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Rupan by サロンディレクターNao
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2025/1/24
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「儒学の日本化を目指せ」… 日本を深く理解するために必読の 「あの名著」はいかにして生まれたのか |
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「儒学の日本化を目指せ」…日本を深く理解するために必読の「あの名著」はいかにして生まれたのか「わび・さび」「数寄」「歌舞伎」「まねび」 そして「漫画・アニメ」。 日本が誇る文化について、 日本人はどれほど深く理解しているでしょうか? 昨年逝去した「知の巨人」松岡正剛が、 最期に日本人にどうしても伝えたかった 「日本文化の核心」とは。 2025年を迎えたいま、 日本人必読の「日本文化論」をお届けします。 くにぶりの誕生以上のように、 日本においては長らく「和漢の境をまたぐ」 ということがつねに重要視されてきたわけなのですが、
これが戦国時代から安土桃山時代になると 少し風向きが変わりはじめて、
もはや中国からの文物を最高位のものとして 賞玩するのは控えようという風潮が出てきます。
室町時代までは、 「唐物荘厳」と言って、唐物、 すなわち中国の舶来物が 一番価値があるという基準があったのです。 それが戦国時代が進むにしたがって、 各地のお国の文化がしだいに認識されたこともあり、 変化していった。 こうした各地の文化や文物や習俗のことを 「くにぶり」(国風)と言います。 いまも「お国ぶり」などと言う。
たとえば陶芸の領域においては、 長らく中国の陶磁器(景徳鎮の焼きものなど)が 最高品だとされていたのですが、
日本各地に「国焼」の窯ができてくると、 そこでプロダクトされる陶器も おもしろがられるようになるのです。
信楽焼、瀬戸焼、備前焼、丹波焼、 越前焼、常滑焼などです。
これらはまとめて「六古窯」とされました。
村田珠光が『心の文』で「和漢の境をまぎらかす」と 言ったのは、
茶の湯では唐物だけでなくこうした 国焼もつかおうという宣言だったのです。
また、 たとえば水墨画は禅宗とともに 日本に入ってきたものなので、 これまた長らく中国の水墨山水が 圧倒的な価値をもっていたのですが、
日本に禅宗が定着し、 鎌倉五山や京都五山にすぐれた 禅僧が出現するにつれ、
そのかたわらから如拙・雪舟・相阿弥のような 名人が登場してきて、
日本風の余白の多い水墨画が好まれるようになり、
ついには長谷川等伯の「松林図屏風」のような 日本ならではの絶妙な山水図が出現したのです。
「古意(いにしえごころ)」で思索する決定的だったのが信長と秀吉の時代に キリシタンがやってきたこと、
そこに西洋のグローバルスタンダードを 受容する限界と危機を感じたこと、
秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役で、 敗退したことなどをきっかけに、 「中国のことはもういいじゃないか」 という空気が醸成されていったことでした。 その流れは徳川家が政権を 握るようになっても変わらず、 江戸時代の初期には林羅山や藤原惺窩などの 儒学者が当時の主流学問であった 朱子学を導入するのですが、 中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠らは、 あえて儒学の「日本化」をめざすのです。 物産にも日本化がおこる。
徳川吉宗の時代になると本草学が独自に発達して、
それまで中国の鉱物や植物の図鑑 (本草綱目など)に頼っていたのをやめ、
日本の風土で育つ植物や農産物に注目するようになり、
実際にもサツマイモや菜種油や砂糖など 国産のものに切り替えるようになります。
享保の改革です。
薬にしても中国漢方そのままではなく、 日本原産の素材を中国の技術で精製する 「和漢薬」を作ろうとするようにもなりました。
いわゆる「鎖国令」を発して、 外国との交通・貿易を禁じていました。
オランダや中国との通商も長崎・出島に制限した。 日本が鎖国をして(正確には「海禁」といいます)、
200~250年という長い期間を内需拡大に 徹していたというのは世界史上でもかなり 異例なことなのですが、
このことはやがて、 これまで中国の影響力のもとで書かれていた 日本の古い書物を中国から離れて読み直すという 「日本儒学」を誕生させるムーブメントにつながったのです。
このような儒学における「中国離れ」の 試みを完成させたのが、
賀茂真淵や本居宣長らが創始した「国学」でした。
日本のことを日本の方法で研究しようという学風です。
まずは契沖や荷田春満や真淵らによって 『万葉集』や『源氏物語』が研究され、
ついで宣長がいよいよ日本および日本人の 起源を記したとおぼしい 『古事記』の研究に入っていきました。
しかし、 稗田阿礼や太安万侶が工夫の 極みをもって綴った文章は、
かんたんには解読できません。
宣長は「漢意=からごころ」(中国的発想)を排して 「古意=いにしえごころ」(日本的発想)による 思索に徹しようと決断しました。
そうでもしなければ『古事記』が語った 本来の意図は読めないと考えたのです。
前述したように、『古事記』は、 仮名がまだ発明されていない時代に 漢字だけを使って書かれた古代日本語の書物です。
そのため、 『古事記』が最初に書かれてから 1000年もたつと、 もはや誰にも読めなくなっていた。
それを宣長は、 読解のさしさわりになる漢字漢文による 表現がもたらすものを「からごころ」として、
自身の「読み」を頭の中から捨てて 読み直しを試みたのです。
実に40年をかけ、 最終的には漢字と送り仮名で構成される 日本語の文章として読めるものに 初めて作り直しました。
それが『古事記伝』です。
日本についての名著は何十冊もありますが (できるだけ本書で紹介するつもりです)、 『古事記伝』はベストテンに入ります。
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