このコーナーでは、
2014年から先端テクノロジーの研究を
論文単位で記事にしているWebメディア
「Seamless」(シームレス)を
主宰する山下裕毅氏が執筆。
新規性の高い科学論文を山下氏が
ピックアップし、解説する。
米MITと米ボストン大学に所属する研究者らが
発表した論文」
「Observation of the Aharonov-Bohm
Effect in Pilot-Wave Hydrodynamics」は、
量子力学で知られる「アハラノフ・ボーム効果」
(AB効果)の類似現象を、
振動する油面上を移動する液滴を
用いた古典的な系で観測することに
成功した研究報告だ。
量子力学には直感に反する現象が
いくつもあるが、
アハラノフ・ボーム効果はその代表例である。
通常、
磁場が荷電粒子に力を及ぼすのは
粒子が磁場の中にあるときだけだ。
ところが量子力学では、
電子が磁場のない領域だけを通過しても、
近傍に磁場が存在するだけで
電子の状態が変化してしまう。
直接触れていないのに影響を受けるという、
奇妙な現象だ。
研究チームは、
この奇妙な量子現象とよく似た振る舞いを、
目に見える大きさの油滴を使って
再現することに成功した。
実験の主役は、
振動する油の表面を跳ねながら
移動する直径約0.9mmの液滴だ。
この液滴は自分が作り出す波に乗って
進むため「歩く液滴」と呼ばれている。
実験装置は、
ドーナツ型の容器に油を満たし、
上下に振動させる。
この振動により液面には
「ファラデー波」と呼ばれる波が生じ、
液滴はこの波と共鳴しながら
秒速数mm程度で移動する。
容器の中心には円盤を沈め、
これを回転させることで
局所的な小さな渦を発生させた。
ここで重要なのは、
液滴が移動するドーナツ領域には
渦による表面流がほとんど届かないという点だ。
液滴は渦から直接押されたり引かれたりすることはない。
これはAB効果において電子が
磁場ゼロの領域のみを
通過するという状況に対応している。
量子力学のアハラノフ・ボーム効果(左)と、
油滴を使った古典的な再現実験(右)
しかし結果は、
渦があるときとないときで液滴の動き方が変わった。
なぜこんなことが起きるのか。
液滴を導いているのは、
液滴自身が作り出す波で、この波は
液滴の周囲に広がっており、
中心の渦がある領域にまで達している。
渦は液滴には直接触れないが、
波には影響を与える。
液滴は波の傾きに従って進む方向を決めるため、
波が変われば液滴の動きも変わるのだ。
中心の渦(中央の円盤)を囲む環状容器内を移動する液滴の軌跡
これはアハラノフ・ボーム効果の本質と
同じ構造を持っている。
量子力学では、
電子に直接力が働かなくても、
電子を導く波動関数が磁気ポテンシャルの
影響を受けることで電子の状態が変化する。
液滴の実験でも、
液滴に直接力が働かなくても、
液滴を導く波が渦の影響を受けることで
液滴の運動が変化する。
どちらも「力なき影響」という点で共通している。
この実験の意義は、
量子力学でしか起きないと思われていた現象が、
実は波で導かれる系に共通する
性質かもしれないと示唆している点にある。
量子の世界では個々の粒子を
追跡することは難しいが、
液滴なら一つ一つの動きをほぼ正確に
観察できる。
目に見える日常的なスケールで
量子的な振る舞いの本質を探る新しい
アプローチの可能性をこの
研究は示したといえるだろう。