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2024年 4月 1日発行

24年7月から新しいデザインのお札になりなす。

日本女子が専門的な知識を学べる学校づくりに

生涯を捧げた人物。



6歳でアメリカに留学

梅子の父は農学者の津田仙。

1853年の黒船来航を目の当りにし
積極的に海外文化を

取り入れるべく行動した人物です・


1871年にアメリカ使節団が女子留学生を

連れていくことになり仙は梅子を参加させます・


留学仲間には山川捨松、永井繁子、がいました。

この二人は梅子を生涯支え続ける同志になります。

使節団には伊藤博文や岩倉具視なども参加していました。



アメリカ到着、留学の始まり


1872年1月25日。

梅子たちを乗せた船、「アメリカ号」

はサンフランシスコに入港。

梅子たち女子留学生は身につけた
着物の珍しさも相まって、

アメリカでは注目の的になっていました。

アメリカではホストファミリーが決まると

留学生たちはそれぞれの家に分かれて

暮らすことになりました。

梅子のホストのランマン家は
美術品や絵画、

本のコレクションで溢れていて、

ランマン夫人も高い教養を持っていました。

恵まれた環境で梅子は学び育っていきました、

10歳になる頃にはネイティブ並みに

英語をあやつる実力をつけていました。

アーチャーインスティテュート(日本の中学~高校)

に進学するとさらに学習し、

ラテン語、数学、物理、天文学、フランス語で

優秀な成績を修めました。

梅子と捨松の2人は留学期間を1年延長し、

梅子17歳、捨松22歳で帰国しました。



帰国と日本の現実


1882年11月、

梅子は帰国しました。

帰国した梅子はアメリカで学んだことを

活かして日本を良くしたいと考えていました。

しかし、

現実は梅子たち女子留学生が活躍できる

仕事の場が与えられることはなく、

日本の女性に対する古い考え方のままで

あることが見えて伺えました。

独身女性は早くに結婚するものという

古い考えのままで帰国した女子留学生も

見られていたようです。

梅子、捨松、繫子の留学生仲間3人は
学校を作ろうと奔走しますが、

周りにはなかなか理解してもらえませんでした。


帰国から1年後、

梅子は使節団で一緒だった伊藤博文と

さいかいします。

伊藤の紹介で「桃天女塾」(現・実践女子大学)の

英語教師となります。

その翌年には宮内省の下で設立された

官立の華族女学校の教授捕に就任。

捨松も準備委員の立場で参加しました。

1888年6月にはアメリカの親友・

アリスが華族女学校の教師として来日。

しかし女学校の現実を見て憤慨します。

華族女学校ではあくまで女性の学問は

嫁入り道具の一つとしての教育しか

していませんでした。

この状況を見たアリスからの勧めもあり、

梅子はもう一度アメリカ留学し、

日本の状況を変えるべく学び直そうと

決意します。

アメリカの知り合いに働かけ、

留学時の学費と寮費の免除を取り付け、

華族女学校とも交渉し、

2年間の留学許可を得ました。



夢に向かって



リベラルアーツ(教養教育)。

サイド留学した梅子がアメリカの名門女子大

ブリンマー大学でトマス博士から学んだ概念です。


一見、自分には関係ないような学習が人を豊かにして

いく力になるという考え方でした。


梅子はこのアドバイスを受け、

それまで学んだことのなかった生物学を

専攻することになります。


また、この留学で生涯の同志となる

アナ・ハーツホンと出会うことになります。

梅子は2年の留学期間を1年延長し、

帰国しました。


帰国後1898年、

華族女学校と兼任で女子高等師範学校教授に

就任。


同年6月にアメリカで開かれた万国夫人クラブ大会に

参加。


その後、ヘレン・ケラーとの面会しています。

1899年3月、

招待されたイギリスでフローレンス・ナイチンゲール

にも面会しています。


これらの経験をしながら着実に学校設立の

準備を進めていました。



学校設立



1900年7月、

梅子は学校設立を本格的に進めるため

華族女学校をやめました。

経済的な援助はアメリカの恩師や友人を

頼りました。


日本の政財界に頼ると口を出され、

思うような教育ができないと考えたためです。

生徒と職員合わせて17人という小規模な

女子英語塾を東京の麴町区1番長に設立しました。


塾の卒業生は優秀で、

1905年にはその優秀さが認められ、

塾の卒業生は英語教員試験が免除されることに

なりました。



梅子の晩年



夢を追い続けた梅子でしたが体調を崩し

1年間の休養を取ります。

その後、

周りの人の不幸が続きます。

1908年4月に父の仙が亡くなり翌年に

母の初が亡くなります。


同年10月に恩師の伊藤博文が暗殺されます。

1914年には最初の留学で梅子を育ててくれた

ランマン夫人が亡くなりました。

1929年8月16日、

梅子は鎌倉の別荘で脳出血のため64歳で

亡くなりました。

6歳で留学、

日本の女子高等教育を進めるために

奔走した一生でした。



<参考:>




1喧嘩はするな、
2意地悪はするな、
3過去をくよくよするな、
4先を見通して暮らせよ、
5困っている人を助けよ、




あなたなら出来ます応援しています

Rupan by サロンディレクターNao


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