「神社とお寺の違い」を
一言で説明できるか…
「神道と仏教の違い」
より分かりやすい
宗教学者の回答
日本にはお寺も神社も存在する。
その違いはなにか。
宗教学者の島田裕巳さんは
「お寺には僧侶が寝起きする場所があるが、
神社は普段神主がいないケースも珍しくない。
これは、『何のための場か』の違いだ」という。
神社には鳥居や鎮守の森がある
神道における施設となるのが神社であり、
仏教だとそれがお寺になる。
神社とお寺はどう違うのか。
仏教のことを考えていく上においては、
まずその違いをおさえておく必要がある。
見た目ということでも、
両者には明らかな違いがある。
神社の場合には、鳥居が建っており、
少し規模の大きなものになれば、
そこに鎮守の森が形成されている。
神が宿るとされる神木が立っていたり、
社殿の背後に、
神の領域とされる神体山があるような神社もある。
神社の境内に一歩足を踏み入れてみると、
そこには参道があり、参道の脇には、
参拝する前に浄めるための
手水舎ちょうずやが設けられている。
参道の先に拝殿があることが多く、
その奥に祭神を祀る本殿がある。
手水舎で「穢れ」を洗い流す
これに対して、お寺の場合には、
一般的には鳥居は建っていない。
実は鳥居が建っているお寺もあるのだが、
それは神仏習合の時代の名残りで、
その数は決して多くはない。
鳥居の代わりに山門が建っているお寺もある。
規模が大きなお寺なら、
立派な山門があることが多い。
参道があるのは神社と同じだが、
ほとんどの場合、手水舎はない。
ただ、手水舎を設けているお寺もある。
関東の人たちにはよく知られた
真言宗智山派のお寺である
成田山新勝寺などがそうだ。
これも、
事情は鳥居の場合と同じで、
基本的に神仏習合の時代の名残りである。
なぜ神社に手水舎があり、
お寺にはほとんどないのか。
すでにそこに両者の信仰の
あり方の違いが示されている。
神道の信仰では、
「穢けがれ」というものを嫌う。
現代では、
この穢れをどのように考え、
どのように扱うかは問題にもなってくるところで
差別にも結びついてくるのだが、
死の穢れや血の穢れといったことが、
昔はとくに神道では問題視された。
神と相対するときには、
穢れがあってはならない。
そこで、
参拝する前に「禊みそぎ」をするのが
正式なやり方だった。
伊勢神宮の内宮の手前にある
五十鈴川いすずがわなどは、
本来、禊をする場所だった。
仏教は、
悟りや修行で苦や煩悩を克服する
こうしたことはイスラム教のモスクでも見られる。
モスクには水場が用意されていて、
そこで浄めてから礼拝に臨む。
イスラム教の創唱者である
ムハンマドの言行録である
「ハディース」は、
コーランと並んでイスラム法である
シャリーアの法源とされる重要なもので、
そこには、
礼拝の前にいかに浄めるかということが
相当に詳しく記されている。
この点で、
神道とイスラム教のあり方には
共通性があると言える。
ただし、
キリスト教のカトリック教会でも、
その入り口に「聖水盤」が設置されていて、
信者はそれに指を浸し、
十字を切る。
果たしてこれを
浄めとしてとらえていいのかは難しいところだが、
水に神聖な力があるとする点では共通している。
一方で、
仏教の場合には、穢れという観念はない。
仏教の立場からすれば、
穢れは外面的なものに過ぎず、
重要なのは人間の内面にある苦や煩悩になる。
それは悟りや修行によって克服すべきものであり、
たとえ禊のようなことを行ったとしても
取り除くことはできないと考えられている。
だから、
基本的にお寺には手水舎はないのだ。
除夜の鐘は明治ですたれ、
昭和に復活
お寺の中心には本尊を祀る本堂があり、
他にも様々な堂宇どううが建ち並んでいる。
それぞれの堂宇には、
やはり各種の仏が祀られている。
神社でも、
本殿には祭神が祀られ、
その他に摂社や末社があり、
そこには、
その神社の祭神とかかわる神々や、
必ずしも直接的にはかかわらない
神々が祀られている。
地域が開発されたりといった事情で
祀られなくなった小祠が近くの神社に
持ち込まれたりするからである。
神社にはなくお寺にあるのが鐘楼である。
お寺の鐘は朝夕の時報として鳴らされ、
とくに大晦日の除夜の鐘はよく知られている。
それは、
108あるとされる煩悩を鎮めるためのもので、
大晦日の風物詩ともなっている。
なお、
除夜の鐘は鎌倉時代から室町時代にかけて
主に禅宗のお寺で撞かれていたものの、
明治になるとすたれ、
昭和の時代に入って、
NHKがラジオで「除夜の鐘」という
番組を始めたことで復活した。
今の「ゆく年くる年」の前身である。