「古意(いにしえごころ)」
で思索する
決定的だったのが信長と秀吉の時代に
キリシタンがやってきたこと、
そこに西洋のグローバルスタンダードを
受容する限界と危機を感じたこと、
秀吉が朝鮮に出兵した文禄・慶長の役で、
敗退したことなどをきっかけに、
「中国のことはもういいじゃないか」
という空気が醸成されていったことでした。
その流れは徳川家が政権を
握るようになっても変わらず、
江戸時代の初期には林羅山や藤原惺窩などの
儒学者が当時の主流学問であった
朱子学を導入するのですが、
中江藤樹、熊沢蕃山、伊藤仁斎、荻生徂徠らは、
あえて儒学の「日本化」をめざすのです。
物産にも日本化がおこる。
徳川吉宗の時代になると本草学が独自に発達して、
それまで中国の鉱物や植物の図鑑
(本草綱目など)に頼っていたのをやめ、
日本の風土で育つ植物や農産物に注目するようになり、
実際にもサツマイモや菜種油や砂糖など
国産のものに切り替えるようになります。
享保の改革です。
薬にしても中国漢方そのままではなく、
日本原産の素材を中国の技術で精製する
「和漢薬」を作ろうとするようにもなりました。
徳川幕府はすでに3代将軍家光の時代に
いわゆる「鎖国令」を発して、
外国との交通・貿易を禁じていました。
オランダや中国との通商も長崎・出島に制限した。
日本が鎖国をして(正確には「海禁」といいます)、
200~250年という長い期間を内需拡大に
徹していたというのは世界史上でもかなり
異例なことなのですが、
このことはやがて、
これまで中国の影響力のもとで書かれていた
日本の古い書物を中国から離れて読み直すという
「日本儒学」を誕生させるムーブメントにつながったのです。
このような儒学における「中国離れ」の
試みを完成させたのが、
賀茂真淵や本居宣長らが創始した「国学」でした。
日本のことを日本の方法で研究しようという学風です。
まずは契沖や荷田春満や真淵らによって
『万葉集』や『源氏物語』が研究され、
ついで宣長がいよいよ日本および日本人の
起源を記したとおぼしい
『古事記』の研究に入っていきました。
しかし、
稗田阿礼や太安万侶が工夫の
極みをもって綴った文章は、
かんたんには解読できません。
宣長は「漢意=からごころ」(中国的発想)を排して
「古意=いにしえごころ」(日本的発想)による
思索に徹しようと決断しました。
そうでもしなければ『古事記』が語った
本来の意図は読めないと考えたのです。
前述したように、『古事記』は、
仮名がまだ発明されていない時代に
漢字だけを使って書かれた古代日本語の書物です。
そのため、
『古事記』が最初に書かれてから
1000年もたつと、
もはや誰にも読めなくなっていた。
それを宣長は、
読解のさしさわりになる漢字漢文による
表現がもたらすものを「からごころ」として、
自身の「読み」を頭の中から捨てて
読み直しを試みたのです。
実に40年をかけ、
最終的には漢字と送り仮名で構成される
日本語の文章として読めるものに
初めて作り直しました。
それが『古事記伝』です。
日本についての名著は何十冊もありますが
(できるだけ本書で紹介するつもりです)、
『古事記伝』はベストテンに入ります。