「意識」とは一体何なのか? 研究者が全身全霊を傾けて説明する!


2024/7/21

「意識」とは一体何なのか? 研究者が全身全霊を傾けて説明する!

 
 
 
 
 
 

「意識」とは一体何なのか?

研究者が全身全霊を傾けて説明する!

 
 
 
意識のアップロードの存在意義⑦

意識とはなにか。

なぜに、数千年もの長きにわたり、

哲学者や科学者の間で喧々諤々の議論が

繰り広げられているのか。

 

なぜに、

現代科学の最後のフロンティアと評されるのか。

 

 

同業の神経科学者の間にも、

「意識は定義すらされていない」との誤解が

蔓延する嘆かわしい現状があるが、

意識は紛れもなく定義されている。

 

わかっていないのは、

その意識がなぜに脳に宿るかである。

 

 

そこで、この場を借りて、

哲学者トマス・ネーゲルによる意識の

定義“Something that it is like to be”を皮切りに、

意識とその深淵なる謎について、

これまでわたしが培ってきたもの

すべてを出し切って説明したい。

 

 

本文を読解する短い時間のなかで“悟り

(意識の定義の理解とその謎の実感)”を開くことができるか、

ぜひ挑戦してみてほしい。

先人たちによる幾多の入門書がその指南に失敗してきたなか、

大多数の人を導くことができたなら、著者冥利に尽きる。

 

 

「意識のアップロード」で

アップロードしようとしているものは一体何なのか。

アップロードを実現するために、

何が解決されなければならないのか。

「意識のアップロード」の具体的な手順に入る前に、

はっきりさせておく必要がある。

 

 

 

 

 
 

 

 

前回の連載で、

意識を“Something that it is like to be”

「それになる感覚」と定義した。

 

これをきちんと理解するにはある種の悟りが必要だが、

あれから早数ヵ月、

その意味するところはストンと腹落ちしたただろうか。

 

 

哲学者トーマス・ネーゲルによるこの定義は、

一度わかってしまえば、

言い得て妙の優れもので、

短い言葉のなかにその本質をついたものだ。

 

まさに、他に言い表しようのないくらいに。

 

その一方で、「それになる」の日常的な言葉遣いから、

様々な誤解を生みやすいことも確かなようだ。

 

最近になって、そのことを思い知らされた。

 

 

 

しかしながら、結果は惨敗。端からわかっている学生にはわかるが、初見の学生にはほとんど通じなかったようだ。最近開発したジェットストリームアタック(機動戦士ガンダムに登場する畳み掛け戦術:次節以降、さらなる改良版が登場)を携え、多少なりとも自信があったのだが、見事に打ち砕かれてしまった。

その苦境からどう立て直すべきか思案していたところ、まったく単位にならないのにもかかわらず、熱心に聴講してくれる学生さんたちと、昼食を食べにいくようになった。一人は医学部の一年生、もうひとりはなんと九州大学の一年生で、毎週、はるばる東京まで通ってきてくれている。

初回の講義から数週間経ったある日、二人のうちの一人が、「それになる感覚」の意味合いがおぼろげながらつかめてきたと打ち明けてくれた。解脱途中のリアルタイムサンプルの出現である。この好機を逃すまいと、いかにして悟りに至ったのかを問うてみた。すると、ネーゲルの「それになる感覚」について、当初、「誰から見たときの、“それになる”感覚なのか?」と考えあぐねていたのだという。

日常的にわたしたちは「誰々になったつもりで考えなさい」といった物言いをする。当然のことながら、そこには主語である「あなた」が隠れており、それが実際に意味するのは「“あなた自身が” 誰々になったつもりで考えなさい」である。

しかしながら、ネーゲルの「それになる感覚」には隠れた主語は存在しない。まさに、それ自身が「それになる感覚」を有するかを問うているのだ。

そのことを踏まえ、“Something that it is like to be”を意訳してみよう。「何かになったとして、そのときに何らかの感覚がわいたならば、それこそが意識である」としたなら、もうすこしわかりやすいだろうか。

仮に「なる」対象が石ころであれば、たとえそれになったとしても、何の感覚もわかないだろう。コップの中の水や旧式のラジオ然り。

その一方で、この瞬間、わたしの脳になったなら、間違いなく様々な感覚がわくことになる。今まさに、この文章をパソコンで打ちながらわたしが目にする黒の鮮やかなフォント、カタカタと耳に響き、指に伝わってくるキーボードの感触、煎れたてのコーヒーの香り。同じく、数週間後にこの記事を目にするであろうみなさんの脳になったなら、種々の感覚がわくことだろう。

誤解のないよう、ひとつことわっておきたい。ここで論じているのは、脳の情報処理ではない。情報処理を行っている最中の脳にわく、処理ごとの「それになる感覚」である。視覚情報処理をおこなっているときにわく「見える」、聴覚情報処理をおこなっているときにわく「聴こえる」といった感覚だ。

何も難しいことを言っているわけではない。「見える」であれば、顔の前にあるものは見えるし、頭の後ろは見えない。ただそれだけのことだ。「見える」や「聴こえる」といった言葉に、なにか特別な意味や仕掛けを含ませているわけではない。「部屋を明るくしたから見える」、「音量を上げたから聴こえる」といったように、あくまで、日常的な意味合いで用いているにすぎない。

専門家が、それが意識だとしつこく言うなら、それはそれで一旦認めるとして、おそらくみなさんの頭の中に渦巻いているのはこんなことだろう。なぜに、一見当たり前の「見える」や「聴こえる」が意識なのか。なぜに、そんなものを巡って、ギリシャ哲学以来、数千年もの長きにわたり喧々諤々の議論が繰り広げられているのか。

それらの疑問を紐解く鍵は、「見える」にしても、「聴こえる」にしても、わたしたちの脳になぜかわく「それになる感覚」であり、決して当たり前のものではないということだ。当たり前でないからこそ、哲学者や神経科学者の飯の種であり続けている。

さきほどの意訳に沿って言い換えるなら、脳になったとして(あなた自身は脳であるわけだが!)、そこに「それになる感覚」がわくからからこそ、わたしたちは「見たり」「聴いたり」することができるのだ。

「見える」や「聴こえる」の意味を日常的なものとして要石的に据え置いたうえで、なぜにそれらの感覚が、脳にわく「脳になる感覚」であるのか、なぜに、当たり前のものではないかについて思いを巡らしながら、次節以降、じっくりと読み進めてほしい。

 

 

コウモリになるとはどういうことか?

 
 

もとをただせば、ネーゲルは

“What is it like to be a bat?

(コウモリになるとはどういうことか?)”と

題した論文のなかで、

当の定義“Something that it is like to be

(それになる感覚)”を世に問うている。

 

 

コウモリはエコーローケーションという特殊な知覚をもつ。

 

口で超音波を発しながら、

その跳ね返りを両の耳で捉えることで空間を把握する。

それゆえ、

光のまったく入らない真っ暗闇の洞窟のなかでも、

ひらひらと舞う蛾の位置を三次元的にとらえ、

捕食することができるのだ。

 

 

 

 
 
 
 
 
これを行っている最中のコウモリには、
 
コウモリになる何かしらの感覚が生じているということだ。
 
 
 
ちなみに、
 
大方の神経科学者および哲学者は、
 
哺乳類と鳥類にはまずまず意識が宿ると信じている。
 
 
 

では、この時のコウモリには、

具体的にどのような感覚が生じているのだろうか。

 

感覚モダリティとしては聴覚に違いないが、

三次元的に外界を捉えるという意味においては、

むしろ視覚に近い感覚なのかもしれない。

 

そのような知覚をもたないわたしたちは想像する他ないが、

何にしろ、

何かしらの感覚が当のコウモリの脳にわいているに違いない。

 

 

コウモリにあり、

石ころにはない「それになる感覚」。

 

その意味するところが実感できただろうか。

 

 

冒頭で述べたとおり、

わたしたちの視覚や聴覚も、

まったく同じ意味において、

ヒトの脳にわく「それになる感覚」である。

 

 

では、なぜにネーゲルは、

コウモリをわざわざ持ち出したのだろうか。

 

それは、

わたしたちにとっての視覚や聴覚があまりにも

身近でありきたりなものだからだ。

 

生まれてこの方、

世界を見て、聴いて、感じてきた身としては、

それこそが意識であり、

大上段から、やれありがたがれ、

やれ不思議がれと言われてもピンとこないだろう。

 

わたしたちに馴染みのないコウモリの知覚を持ち出すことで、

第三者的な視点から

「それになる感覚」を解することを促したのだ。

 

 

もちろん、

そのプロセスを通して「それになる感覚」の意味を

把握した後に、

ヒトの意識に立ち返ってくることが求められている。

 

議論したいのはあくまでヒトの意識であるからだ

(厳密に言えば、コウモリの意識は保証されていない!)。

 

 

 

ヒトになるとはどういうことか?

 
 

とはいえ、

まだまだ困惑するみなさんの顔が目に浮かぶ。

 


先述の畳み掛け戦術の第二弾として、

今度は、

宇宙人になったつもりでヒトの意識を捉え直してみよう。

 

 

この宇宙人は目をもたない。

発達進化の過程で、

彼らの祖先は目の誕生の奇跡に恵まれなかったようだ。

 

ちなみに、

地球上に暮らすわたしたちの祖先は、

今を遡ること五億年前のカンブリア紀に

幸運にも目を手にし、

自然淘汰のなかでそれを進化させてきた。

 

 

 

 
 
 
 
 
ヒトを一匹捕まえてきたとしよう。
 
その頭部に着目すると、
 
“触り”なれない球状のものが両側にふたつ鎮座している。
 
それらをくり出して解剖してみると、
 
光を感受する器官であることが判明する。
 
さらに、そこから伸びる神経配線を辿っていくと、
 
脳の広大なスペースがそこからの入力処理に
 
割かれていることが明らかになる
 
(「明らか」という言い回しも
 
この宇宙人には存在しないだろうが!)。
 
 

次に、

その性能とやらを詳らかにするために、

生きたままの状態で行動実験をおこなう。

 

幸か不幸か、

 

それが視力のよい個体だったとしたら・・・ 

遠隔の対象を驚異の空間分解能で

掴み取っていることに驚愕し、

 

人類を野放しにはできないと判断するかもしれない。

 

 

それはさておき、

その宇宙人が、

人類のみならず地球上の生物に対して

ある程度の敬意をはらい、

すくなくともその一部には意識が宿ると仮定したなら、

視力を発揮しているヒトの脳には、

それに応じた独特の感覚がわいていると推察するだろう。

 

 

網膜に存在する、

短、中、長の波長の光に反応する

三種類の視細胞から、

三原色を基本とした色鮮やかな世界を体験しているはず。

 

適度な距離をおいておかれた二つの眼球と、

それらの出力を巧妙に組み合わせた

脳の情報処理から、

三次元的な世界を体験しているはず、と。

 

 

ネーゲルが、

エコーローケーションを行っている最中のコウモリに、

コウモリ固有の独特の感覚が発生していると

推察したのとおなじように。

 

 

ここまでで「それになる感覚」自体の説明は終わりとなる。

 

まだピンとこない方は、

 

次節に進む前にいまいちど考えてみてほしい。

 

 

わたしたちの脳には間違いなくわいていて、

石ころにはわいていそうにない

「それになる感覚」。

 

「それになる感覚」には、

見える、聴こえるなどの五感のほか、

なにかを思い出す感覚、

意思決定する感覚、喜怒哀楽など、

わたしたちの体験するすべての感覚が含まれる。

 

それ以上でもそれ以下でもなく、

難しく考える必要はない。

 

難しく考えすぎると、

かえって悟りから遠ざかってしまう。

 

 

残念ながら、同業の神経科学者の間にも、

「意識は定義すらされていない」との

誤解が蔓延する嘆かわしい現状があるが、

 

意識は紛れもなく定義されている

(本定義が曖昧に感じられるうちは、

まだ理解できていない可能性が高い!)。

 

 

わかっていないのは、

そのように定義された意識が

如何にして脳に生じるかである。

 

 

 

ライプニッツの思考実験

 
 

では、「それになる感覚」、

たとえば「見える」という感覚が、

脳に生じる不思議とは何だろうか。

 

 

そのことを焙り出すべく、

17世紀の哲学者、

ライプニッツの思考実験を少々

アップデートしたうえで紹介したい。

 

 

「風車小屋の思考実験」と呼ばれるもので、

先見の明あふれる素晴らしい思考実験ではあるが、

脳についてなにもわかっていない時代に

考案された代物で、

その古さはやはり否めない。

 

 

 

 
 
 
 
 
ライプニッツの前の時代、
 
14世紀から16世紀にわたるルネサンス期において、
 
罪人などを対象に始まった。
 
 
 
レオナルド・ダ・ヴィンチも30数体の
 
人体解剖に携わっており、数多くのスケッチを残している。
 
 

上の図に示したダ・ヴィンチのスケッチにもあるように、

脳から全身へと無数の細い管が伸びることから、

当時、脳が何かしら重要な役割を果たしていると考えられていた。

 

一方で、脳の情報処理の鍵をにぎる

電気についてはその存在すらも知られておらず

(18世紀のベンジャミン・フランクリンの登場を待たねばならない)、

脳がその細い管をとおして、

水圧駆動で身体の筋肉を制御していると考えられていた。

 

今日の油圧駆動のショベルカーの如く。

 

 

ここでは、

より具体的なイメージがわくように、

脳の電気的な活動ありきでライプニッツの

思考実験をアップデートする。

 

 

1966年公開の映画「ミクロの決死圏」をご存知だろうか。

 

個々の原子のレベルで物質を縮小する革新技術を巡り、

 

国際スパイが暗躍するSFアクション映画だ。

 

物語の中盤以降、

ミニチュア化された人が人体のなかを探検する様子が描かれる。

 

 

同様の技術で、

わたしの頭蓋のなかに入っていくことを想像してみよう。

 

 

腕の血管から入り、頸動脈を抜けて脳に到達すると、

目の前にニューロン群が立ち現れる。

 

近いものは手が届きそうなほどに、

 

遠いものは霞んでみえるほどに、

 

幾多のニューロンが連綿と連なっている。

 

ニューロンからは神経線維がのび、

それらが複雑に絡み合うことで巨大な神経回路網をなしている。

 

 

そんななか、

わたしの座るテーブルの上にリンゴが置かれ、

それを食すかどうか逡巡しているとの外部無線連絡が入る。

 

視覚野に急行すると、

眼球からの電気信号をうけ、ニューロンが活発に活動している。

 

 

ちなみに、ニューロンが活動すると、

 

昨今のCG映像のように光りはしないが、

ほんの少しだけ大きくなることが知られている。

 

また、その活動にあわせ、

 

ニューロンとニューロンとをつなぐシナプス部には

神経伝達物質が放出される。

 

これらの現象を十分に分析し、

外部無線連絡と照らし合わせることで、

情報処理装置としての脳のはたらきについては、

余すことなく解き明かすことができる。

 

 

わたしの頭蓋のなかに話を戻そう。

 

視覚野に佇むあなたの目の前でリンゴの

位置と大きさが検出されると、

その情報は意思決定を担う前頭前野へと送られる。

 

情報の流れを辿って前頭前野に向かうと、

視覚野のみならず、

内蔵感覚をつかさどる島皮質からの入力も受け、

リンゴを食すかどうかの意思決定が

今まさにおこなわれようとしていた。

 

 

お腹はすいているか?

リンゴは傷んでいないか?

社会的文脈として食べてもよい状況にあるか?

 

 

はるばるやって来た甲斐があって、

無事、食そうとの判断が下る。

 

次のステップは、

運動指令の発出とその変換処理だ。

前頭前野が下す「手でリンゴを掴んで口元へ運べ」

といった大まかな指令は、

運動野で処理されることで、

最終的に筋肉一本一本を制御する

きめ細やかな信号へと変換される。

 

 

このように、

リンゴを前にしてわたしの脳に生じる感覚処理、

意思決定、運動処理については、

直に観察することができる。

 

 

しかしながら、

ライプニッツの言葉を借りるなら、

“わたしの意識はどこにも見当たらない”。

 

脳に意識が生じていることは確かなのに、

脳を覗いてもどこにも見つからない。

 

 

わたしが体験する、

リンゴを目にしたときの鮮やかな赤、

手にとったときの重さや肌触り、

口にしたときの爽やかな酸っぱさ。

 

それらのビビッドで豊潤な主観体験を

彷彿とさせるものは、

その片鱗すらも見いだせない。

 

そこに見つかるのは、

活動にあわせてほんの少しばかり

大きさを変化させるニューロンと、

ニューロン間を行き交う神経伝達物質のみだ。

 

ちなみに、ライプニッツのオリジナルの思考実験では、

意識を持ち、

外界を知覚することのできる機械が登場する。

 

その機械を風車小屋くらいの大きさにまで逆に膨らませ、

人がその中へと入っていく。

 

いざ中に入ると、ピストンやプッシュロッドが

押し合いへし合いする様子は観察できるが、

やはり、“機械の意識はどこにも見当たらない”。

 

 

では、どこにも見当たらない

「わたしの感覚=意識」は、

脳の何から生まれているのだろうか。

 

 

 

 

神経回路網に生じる

「それになる感覚」の大いなる不思議

 
 

その答えはあなたの目の前にある。

 

わたしの感覚を体験するには、

わたしの神経回路網自体にならなければならない。

 

目と鼻の先にあるわたしの神経回路網に

「それになる感覚」がわき、

それ自身が見て、聴いて、感じているのだ。

 

まさに、「わたし」がそこに宿っている。

 

 

ただ、わたしの頭蓋のなかで、

わたしの神経回路網を前にしているあなたは訝しむだろう。

 

こんなものに「それになる感覚」がわくはずがない。

 

「わたし」=主体など宿るはずがない、と。

 

神経回路網を構成するニューロンは、

所詮、ただの細胞にすぎない。

 

細胞膜をもち、

その中心に細胞核を携えたごくごく普通の細胞だ。

 

しかも、細胞にすぎないそれぞれのニューロンは、

それぞれ脳のなかで孤立している。

 

 

あるニューロンから伸びた神経線維に注目すると、

受け手のニューロンと直接的につながっているわけではない。

 

ニューロンとニューロンとの間には、

極小の隙間、いわゆるシナプス間隙があいている。

 

先述の神経伝達物質は、

その隙間の間の連絡を担っているのだ。

 

 

 
 
 
 
 
ただの化学物質にすぎない。
 
 

もちろん、

神経伝達物質を介したニューロンどうしの相互作用により、

神経回路網が全体として高度な情報処理能を有することは、

昨今のAI=人工ニューラルネットワークの

爆発的な進化をみても明らかだ。

 

ここで疑問視しているのは、

あくまで、わたしの頭蓋のなかに佇むあなたの立ち位置、

言わば、客観的な視点からみたときの、

情報処理を行っている最中に脳に発生する

「それになる感覚」の存在である。

 

 

一方で、

脳に「それになる感覚」が現に発生することは、

あなた自身が一番よく知っている。

 

あなた自身が脳であるのだから。

 

あなたが、見て、聴いて、感じることができるのは、

まさに、あなた自身の脳に、

脳になる感覚がわいているからに他ならない。

 

すなわち、主観の側からすれば、

脳の「それになる感覚」は絶対的に存在する。

 

むしろ「それになる感覚」こそが主観である。

 

神経回路網=脳というと、

なにか、謎めいた不思議なもののように思えるかもしれない。

 

その不思議なものに、

不思議な「それになる感覚」がわいたとしても、

それ自体、別段不思議なことではないのではないか。

 

そのように問題を先延ばしにしたくなる

気持ちも分からなくはない。

 

しかし、ここで述べたように、

脳神経科学の発展した今日、

 

ニューロンと、

それによって構成される神経回路網の神秘の

ベールは完全に剥がされている。

 

 

かのフランシス・クリックの言葉をかりるなら、

”We are nothing but a pack of neurons

「わたしたちはニューロンの塊にすぎない」”。

 

 

なぜに、ニューロンの塊にすぎないわたしたちの脳に

「それになる感覚」がわくのか。

 

なぜに、

第一人称である「わたし」=主体が宿るのか。

 

この客観と主観の間のギャップこそ、

意識の最大の謎である。

 

 

哲学者レヴァインの言葉を借りるなら

「説明のギャップ」、チャーマーズの言葉を借りるなら

「ハードプロブレム」。

 

表現の違いこそあれ、

人類の叡智を尽くしても、

決して解くことのできない問題であるとのニュアンスが色濃く漂う。

 

 

その詳細については次回連載に譲ることとするが、

実のところ、

わたしの「意識のアップロード」構想は、

「意識のハードプロブレム」をノンハード化したうえで、

意識を科学の俎上にのせる研究アプローチの成果物に相当する。

 

意識の解明と、

その先の「意識のアップロード」に

興味のある方は乞うご期待!

 

 

 

 

 

 
 
 
 

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