神社のお参りの所作
「二礼二拍手一礼」には、
実はとてつもない
エネルギーが入っている! <cite>
</cite>
なぜ二礼二拍手一礼なのかを考えてみた
初詣でばしっと「二礼二拍手一礼」をキメたあなたは、
きっと「どうして礼と拍手が二回ずつなんだ」
という疑問を持つでしょう。
丁寧にすれば、
一回ずつでいいじゃないか? と。
私も最初はそう思いました。
実を言うと、
二礼二拍手一礼の明白な意味は
わかっていません。
諸説あるのですが、
二礼と二拍手の「二」は、
「めちゃくちゃたくさんの数」を
表しているのではないかという説が、
多くの人にしっくりくるかなあと思います。
0が「無い」、1は「ある」、2は「複数ある」。
この「複数」をめちゃくちゃたくさんの数と解釈する。
すなわち「二」は、
千や万や億、兆や京や那由多や
不可思議を内包しているのだ、
という考え方です。
「とてつもない数のおじぎ」と
「桁外れの回数の拍手」をぎゅっと
二回に凝縮したものであるから、
相当のエネルギーがそこに入っていると。
これなら、
東洋哲学に興味がある外国の方にも、
すんなりイメージしていただけると思います。
問題は、最後の一礼です。
神様に対する終わりの挨拶であるとか、
その場を退く合図であるといった説があり、
これらもたしかにもっともらしい。
けれども、神職の作法では、
このあとに一歩退いてから浅めの礼をするので、
これが退くときの挨拶だと思われます。
ほんなら、二礼二拍手一礼の
最後の一礼って、何なん?
これに対する上手な答えはないものか。
と、「意味は追求しない」タイプの私も、
それなりに気になってはいました。
十年ほど前に剣道を始めたとき、
戦国武将のように強い七段の先生から
「残心(ざんしん)」という概念を教わりました。
剣道をしている人が、
「メーン!」と叫びつつ全エネルギーを
集中させて相手の面を打ったあと、
そこで止まったり腕を下ろしたりせずに、
打突(だとつ)の形と勢いを保ったまま
走り抜けるのを見たことがあると思います。
こういった、
打突の形と勢いを保つことを「残心」と呼ぶのだと、
先生は教えてくださいました。
残心の意味や、
それを行う理由については語られませんでしたが、
私はその概念を体で理解したつもりです。
ザンシン。響きもいい。
私はこの時、
「二礼二拍手一礼の最後の一礼は、
残心のようなもの」と説明できるかもしれない、
と思いました。全エネルギーを集中させ、
心を一滴たりとも残さずに二礼二拍手をしたときに、
残像のように残る心、
それが最後の一礼なのだと説明したらどうかしら、と。
しかし、
「残心」の概念も、実際に剣道をやってみないことには、
「あ、こういうことか」と、芯から納得はできないので、
言葉だけで人に説明するのは本当にむずかしい。
逆に、
うまい説明をされた時には「うまいこと言うね」
と軽く感心する程度が良いと思います。
そして、
頭で意味を考えずに二礼二拍手一礼
ができたら最高です。
日本人に通底するげんかつぎの感覚
多くの人にとって、
神社でお参りが済んだらおみくじを引いて
一年を占い、
ひとしきり盛り上がるのが初詣の恒例
でもありますよね。
それから、
新しいお守りとお札を受けて、
絵馬を書いて、露店でいつもの好物を買って。
毎年することが決まっていて、
それをしないことにはどうにも始まらん、
という人も多いのではないでしょうか。
日本では多くの人が、
物心ついた頃からお正月には初詣をします。
ふだん静けさを誇る神社にも、
「この町にこんなにたくさん人が住んでいたのか」
と驚くほどの行列ができます。
「年が明けたら初詣に行く」というシステムが、
多くの人の体に、
デフォルト設定されているのではないかしら?
と思うほどですが、
そこには、
「げんかつぎ」という感覚があるような気がします。
げんかつぎとは、
以前におこなって、
良い結果を得られた行為を、
繰り返し行うことによって、
吉兆を推しはかる行為のことです。
家族揃っての初詣は、
これの最たるものではないでしょうか。
神社のお祭りは、
一月一日の歳旦祭はもちろん、
毎年、同じ月の同じ日の同じ時刻に行なわれ、
稲作の段取りや四季の暮らしに縫い合わさるように、
毎年同じ内容の神事が行われていきます。
田植えの春祭り、
疫病除の夏祭り、収穫の秋祭り、
そしてまた、年神様を迎える歳旦祭。
農耕民族の日本人は、
毎年同じ日に同じことをすることで、
実りと繁栄を確実なものにしたかったのでしょう。
今は農業を専門にする人は圧倒的に減りましたが、
それでも年の初めには必ず神社に詣でる、
という人が大多数なのは、
私たち日本人に農耕民族としての
感性が残っているから。
神社へのお詣りは、
特定の神様への信仰があるとかないとか、
そういうことではなく、
私たちの民族的な感覚そのもの、
という気がします。
神社の書庫に大事に収められている、
和紙に墨で書かれた奉納帳を見ると、
祭りには毎年、
同じ人が同じ物を奉納しています。
二、三十年単位で世代が入れ替わって行くものの、
それが何百年と繰り返されていることがわかります。
デジタルデータは消えても墨は消えない。
実感として紙と墨を信用しているので、
私たちは今でも祭りの奉納帳を墨で書いています。
毎年更新されつつ、
その存在も、やっていることも、
何百年も変わらない。
考えてみれば奇跡です。
そんな神社という場所が、
日本中どこでも、
「氏神さん」としてご近所のあちこちにあって、
そこには必ず御神木と呼ばれて
切られることをまぬがれた樹齢の高い木が、
鎮守の森を形づくっている。
そこにしか生えない苔や、
小さな生き物が暮らしている。
その存在を感じると、
「守られている」という安心がじわじわきて、
漠然とした不安から解放される
のではないでしょうか。
「ここはいつ来ても変わらへんなー」
「いつきてもきれいで気持ちがええなー」、
という参拝者の素直な感想こそ、
神社の本質なのだと思います。
これだけ世知辛い世の中にあっても、
初詣で一年のげんかつぎをすることについて、
「具体的な効果があるのか」とか
「エビデンスを示せ」
などと言う野暮な人はいません。
そもそも、
幸せとは、
因果によってもたらされるものではなく、
偶然に天から降ってくるもの。
自分の力の及ばぬもの。
みんなが心のどこかでそう感じているから、
私たちはげんかつぎをするのですから。
ちなみに私のお正月のげんかつぎは、
東京の母から送ってもらう、
「お目出糖」という小豆と餅米の蒸し菓子です。
これをみんなに振る舞って、
みんなの三倍ぐらい自分でも食べるのが、
年の初めの恒例になっています。
<参考:>
1喧嘩はするな、
2意地悪はするな、
3過去をくよくよするな、
4先を見通して暮らせよ、
5困っている人を助けよ、
あなたなら出来ます応援しています
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