3年後に死んでも後悔しないように生きよ」
心の極限状態を経験した心理学者が
そう力説する深い理由
人生は修学旅行のような、
ほんの一瞬の儚い出来事
諸富祥彦『50代からは3年単位で生きなさい』
河出書房新社)の一部を再編集したものです。
「3年後の死」の覚悟すると、
死に向かい体が駆け上っていくのを体感
「たとえ、あと3年で死んだとしても、
悔いのないように日々を生きよ」
これが本書の基本的なメッセージです。
「あと3年」というのは、
本当に短い時間です。
「3年後の死」をリアルに実感し、
覚悟しながら日々を送り始めると、
身体感覚に変容が生じ始めます。
自分の体が「死」に向かっていく。
「無」に向かっていく。
それを日々体感します。「死」に向かい、
「無」に向かって、
自分の体が駆け上っていくのが
体感されてくるのです。
すると、
生と死の間の「境界」が溶解し始めます。
「生の向こうに死がある」という感覚はほぼ消えて、
「自分はすでに死の中にいる」、
そして「死の中にほんのり、
儚く生が混じり入っている」。
その儚き生を生きている。
人生後半を生きている人の多くが
死をごまかさずに生きているならば
そんな実感を持っているのではないでしょうか。
このように、
私自身も年齢を重ねるにしたがって
死ぬということについての感じ方は、
変わってきました。
ある極限状態に追い込まれて、
死ぬ直前までいったこともあります。
くわしくは『人生に意味はあるか』(講談社現代新書)
という本に書きましたが、
ギリギリのところまで追い込まれたのです。
そのギリギリの体験で私が体験したのは、
「立脚点の変更」の体験でした。
一言で言うならば、
「いのちが、私している」
見えない、いのちの働きが、
たまたまこの時、
この世では、
縁あって“私”という形を取っている
ということをリアルに実感する体験でした。
少し説明しましょう。
15歳から7年続いた
「魂の闇夜」と言うべき体験
「私が生きている」と私たちはふだん思っています。
「私はいのちを持っている」と。
しかし、
私は本当に限界まで追い込まれて、
観念してすべてをあきらめて
「ああ、もう、死んでしまってもいいな」
と思えた瞬間があった。
「もう限界、越えた」
「ああ、人生、終わったな」
「それでいいや」と思った体験があったんです。
実際に畳の上にぶっ倒れて、
あお向けで倒れていたわけですけれど、
ちょうどおへそから1mくらい上ですか、
そのあたりに、
大きないのちの渦のようなものがありありと
実感できたんです。
「あっ、これが私の本体か」と思いました。
つまりそれまで自分で
「私だと思っていた私」は、
むしろ私の「仮の宿」であって、
ほんの一瞬、
数十年という「ほんの一瞬宿った仮の宿」である。
私の本体は、
もともと生まれてもいないし、
死にもしない。
生まれることもなく死ぬこともなく、
ただそこにある。
この「不生不滅のいのち」が、
たまたまほんの一瞬、
数十年というほんの一瞬だけ、
私している。
私という形を取っている。
この肉体に宿っている。
そうありありと実感したのは、
21歳の死を覚悟した時です。
その時の実感としては、
「いのちが、私している」。
大いなるいのちの働きそれ自体、
これは形なきもの、見えないものです。
見えないいのちの働きが、
たまたま一瞬、
この見える世界、この世で、
「この私」という形を取っている。
死んだらこの「形」はなくなり、
「形なきいのちの働き」だけに戻っていく。
15歳くらいから、
「魂の闇夜」とでも言うべき体験をして、
ギリギリのところまで追い込まれた。
7年間、
生きているか死んでいるか
わからないような状態で彷徨い続けて、
本当に苦しかった。
他の苦しみなど、
何でもないというくらい苦しかった。
出口がない。
7年間、出口がないんです。
もう永遠にそのままなのかもしれないと思っていました。
7年間苦しんで、
ようやく21歳の時に、
ポ~ンと抜け出ることができた。
その時の実感としては、
「見えない世界」の中に「見える世界」が浮かんでいる。
「見える世界」の向こうに「見えない世界」が
広がっているのではない。
こちら側とあちら側という関係ではない。
「見えない世界」の中に
「見える世界」が浮かんでいる。
私の本体は、
見えないいのちの働きそのものであって、
それが同時に、
ほんの一瞬だけ「私」という見える
形を取っている。
そういう実感です。
人生という「迷い道」の中で「学ぶことの意味」
では人生という「迷い道」を歩く中で、
「学ぶことの意味」はどこにあるか。
プラトンという古代ギリシアの哲学者は、
哲学をするということは、
「死の練習」をすることであると言いました」
プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルは、
多くの人は死の2週間くらい前になると、
人生の真実がわかる。
心理学を学ぶと、
それをほんの数十年早く学ぶことができる。
それが心理学を学ぶことの意味だと言っていました。
迷い道から抜け出たらどこに行くのかを、
どこかちょっとだけわかりながら、
迷い道で迷い続けるというのが、
生きるということなんだろうと思います。
死ぬということは、
「迷い道から抜け出る」ことなんだと
少しだけわかりながら、
日々を迷いながら生きるのです。
この「少しだけわかりながら」というのが、
「学ぶことの意味」です。
人生がいつまでも続くと思うと、
ついだらだらと無意味な時間を過ごしてしまいます。
しかし、
人生そのものが
「ほんの一瞬の魂の修学旅行」だと
いうことがわかっていると、
そういうことがなくなる。
修学旅行が4日間だとするならば、
私の年齢の58歳というのは、
最終日、4日目の朝方でしょうか。
「ああ、今日が最終日だ。
もうすぐ終わりだ」と寂しい気持ちで
終わりを感じつつも、
最後まで精いっぱい学び、
遊び尽くす。
それが50代、60代、70代という年齢です。
人生を「とりあえず3年」単位で生ききる、
という本書の教えも、
人生というのが、修学旅行のような、
ほんの一瞬の儚い出来事だということを
忘れずにいるための仕掛けなのです。
人間は生まれた時から
「死の世界」「見えない世界」の中にいる。
形なき「見えない世界」の中で、
同時に「見える世界」にも生まれ落ちるわけです。
当然のことながら、
生まれた瞬間からすでに
「あの世」にいる。
生まれた瞬間から「あの世」
「死の世界」にも同時にいるんです。
私たちは、
赤ん坊であろうと中学生であろうと、
58歳であろうと90歳のご老人であろうと、
同じ。
みんなすでに「あの世」「形なき世界」の中にいる。
「あの世」にいることを死んでいると
言うのであれば、
すでに死んでもいるんです。
全員死んでいる。
死んでいるんだけど、
ほんの一瞬、数十年だけ、
同時に生きてもいるんです。
幻というならば、
生きていること自体が幻です。
ほんの数十年だけ、ほんの一瞬だけ、
幻の世界を生きている。
ほんの一瞬、「魂の修学旅行」をできている。
ありがたいことです。
ありがたく生きましょう。
精いっぱい「魂の修学旅行」を楽しみましょう。
もうすでに死んでいるんですから、
わざわざ死ぬ必要はありません。
わざわざ自殺なんかする必要はない。
こうしたことを体感的に学ぶことができる
心理学がトランスパーソナル心理学です。
<参考:諸富祥彦>
1喧嘩はするな、
2意地悪はするな、
3過去をくよくよするな、
4先を見通して暮らせよ、
5困っている人を助けよ、
あなたなら出来ます応援しています
Rupan by サロンディレクターNao
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