なぜ人間は泣くのか、 進化生物学者が解き明かす 「涙」の真の目的


2026/5/29

なぜ人間は泣くのか、 進化生物学者が解き明かす 「涙」の真の目的

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

なぜ人間は泣くのか、

進化生物学者が解き明かす

「涙」の真の目的

 
 
 

 

 

チャールズ・ダーウィンは、

1872年に出版された著書

『人及び動物の表情について』

(邦訳:岩波文庫)において、

 

感情をあらわにして泣くという非常に

人間らしい行為を「無益だ」と断じ、随伴現象、

すなわち生物学的には副次的な事象だとつづった。

 

あらゆる子細な行動に意味を見いだしていた

ダーウィンにとって、

これはまさに敗北宣言だった。

 

 

 

それから約150年が経った今、

ダーウィンもお手上げだった難問に、

ついに答えが出た。

 

しかもこの答えは、

ダーウィンが想像できたであろう範囲を超えた、

不思議で奥深いものだ。

 

 

「泣く」という行為には、

表面上は、生存上のメリットは

ほとんどないように見える。

 

泣けば、

視界はぼやけてしまうし、

近くにいるあらゆるものに対して、

自分が脆弱な状態にあると

瞬時に伝えることになる。

 

ゆえに、

明らかな利点はまったくない。

 

しかしどういうわけか、

泣くことは、

人間にとって普遍的な行為だ。

 

 

記録されているあらゆる歴史を通じて、

あらゆる人間の文化に、

泣く行為が存在する。

 

何百万年にもわたって、

考え得るあらゆる社会環境でこれほど

根強く存在するものは、

偶然生まれたものとは考えられない。

 

 

 

2018年に『Human Nature』に掲載された

画期的なレビュー論文で明確化された、

 

科学界で一般的な見解は、

「人が泣く理由は、単一の原因に

帰結しない」というものだ。

 

泣くことは、

重層的なコミュニケーションの仕組みであり、

聴覚と視覚に訴えるだけでなく、

 

 

同時に、

化学的な変化が起きることが判明している

これについては、(この後詳しく説明する)。

 

 

この論文の結論は、

「感情的な涙は、

悲しみを表現するために進化したわけではなく、

周囲の人の行動を変えるために

進化したものだ」というものだ。

 

これは、直感には反するが、

その正しさを裏付ける研究は増え続けている。

 

 

最初は「助けを求める叫び」だった

 

涙の進化の物語の発端にあるのは、

悲しみではなく、飢えだった。

 

あるいは、寒さや恐れだったかもしれない。

 

具体的には、

「泣く」という行為を始めたのは乳児だった。

 

人間だけでなく、哺乳類を通じて、

親から引き離された幼い子は、

研究用語で言う「心痛の表出」を行なう。

 

これは、

親からの別離を拒む叫びで、

その機能はただ一つ。

 

子と保護者との距離を縮めることだった。

 

前述した、

2018年に『Human Nature』に

載ったレビュー論文では、

 

人間の乳幼児の泣くという行為が、

この哺乳類に伝わる設計図から

直接進化したことを裏付けている。

 

 

泣くことは、

緊急事態を伝えることを目的として、

ピッチや強度を巧みに調整した、

段階的な音によるシグナルだ。

 

相手を心から必要としていることを

示す指標として、

非常に信頼に足るものだ。

 

 

このシグナルが機能するのは、

乳幼児と保護者のあいだに、

この叫びが本物であればどちらにとっても

プラスになるという、

 

進化上の一致した利害関係があるからだ。

 

つまり、

偽りのシグナルは無視され、

心からの叫びであれば

対応してもらえるということだ。

 

 

次に、

人間社会の進化における非常に

長い軌跡を通じて、

このシグナルの及ぶ範囲が広がっていった。

 

乳幼児だけでなく、大人も泣くようになった。

 

さらに、

涙に付随して、視覚に訴える要素が加わった。

 

それは、

頬を伝う涙の跡や、

震える唇、

落胆していることを示す前かがみの姿勢、

 

といったものだ。

 

こうした目に見えるシグナルが加わったことで

、涙は、子どもがやみくもに泣くよりも、

かなり高度な意思伝達手段になった。 

 

 

「感情的な涙」の社会工学

 

大人が泣くと、

それを目にした人たちにも、大きな変化が起きる。

 

共感が増し、攻撃的な感情が収まり、

その結果、人と人のあいだの絆が強まる。

 

これは漠然とした印象論ではなく、

科学的に記録された「涙の効果」だ。

 

人が泣いているのを見た人たちは、

前述の2018年の論文が

「向社会的シグナル送出メカニズム」と

呼ぶ機能を、

 

涙が果たしていたと証言している。

 

これは、「私は脅威ではありません。

 

助けを必要としています。

 

そのことをこうして示すほど、

あなたを信用しています」というメッセージを、

信頼に足る、

 

捏造が難しい真摯な態度で、

周囲に送る行為なのだ。

 

 

『米国科学アカデミー紀要(PNAS)』に

掲載された別の画期的な研究で認められたように、

 

人が泣いているのを見ている者の脳内では、

自分が泣いている時と同じ領域が活性化する。

 

人の共感能力を支えるミラーニューロン・ネットワークは、

特に涙を見ることで活性化する仕様になっているようだ。

 

 

進化の歴史のどこかの時点で、

涙は、それを見た他者から、

共感や同情を自動的に引き出すようになった。

 

個体間の協力によって生き延びてきた

ヒトという種にとって、

 

涙と、目に見えるシグナルで、

他者からの関心を確実に引き出し、

争いを収め、

団結を促す能力は、とてつもなく有利に働いた。

 

 

一方で、この説については、

より厳しい現実を示す見方もある。

 

涙は、隷属を示すシグナルでもあるのだ。

白旗や、手に何も持っていないことを

示すために左右の手のひらを相手に見せる

「降伏の仕草」と同様に、

 

涙は、泣いている人物が攻撃を断念し、

自分が弱い状態にあると認めたことを示すシグナルだ。

 

 

いずれにしろ、

赤の他人や敵、あるいは恋人とのいさかいにおいて、

この涙というシグナルは、

言葉だけではなし得ない、

その場の緊張を緩和させることができる。

 

 

進化の観点から見た理屈は明確だ。

 

争っている時に、

涙が示すシグナルを両者が正確に読み

取れるのであれば、

決着がつくまで戦う必要はなくなる。

 

この意味合いで涙は、

感情の表出であるのと同程度に、

争いのエスカレーションを防ぐ社会工学と言える。

 

 

「感情的な涙」の生化学的特徴

 

涙をめぐる科学は、

ここからぐっと不思議な展開を見せる。

 

ここはまた、ダーウィンにも未解決だった謎が、

ようやく解き明かされるポイントでもある。

 

 

『Science』誌に掲載された2011年の

研究論文で、

研究チームは、人間の感情的な涙に、

明白な匂いはない「ケモシグナル(chemosignal)」が

含まれていることを突き止めた。

 

ケモシグナルは、

匂いがあると意識はできないものの、

嗅覚器官で検知可能な化学物質だ。

 

こうした時の涙は、音波にたとえるなら、

人間が受信できると意識していない周波数で、

広くシグナルを送信していたことになる。

 

 

この発見は、

2023年に『PLOS Biology』に掲載された研究論文で、

さらに範囲が広げられ、大きな裏付けを得た。

 

こちらの論文では、厳密な行動に関するパラダイムを用いて、

男性の被験者が、

感情的な涙を、

それと知らずに嗅ぐと

(知覚できるレベルの匂いはまったくなかった)、

攻撃的な行動が43.7%減少することを確かめた。 

 

 

 

脳の画像撮影からも、

このメカニズムが裏付けられた。

 

感情的な涙の匂いを嗅ぐと、

嗅覚と、攻撃に関連する神経ネットワークの

機能的接続が増加し、

 

敵意を持った行動に関連する脳の

領域を積極的に抑制することがわかったからだ。

 

 

生化学の分析から、

この機能が作用する理由について、

重要な背後関係が明らかになった。

 

感情的な涙は、

目の表面を潤して乾燥から守る基礎的な涙や、

切った玉ねぎを目にすると流れる反射的な涙とは、

化学的な素性が異なるという。

 

 

具体的には、感情的な涙には、

プロラクチンや副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)、

ロイシン-エンケファリン、カリウム、

マンガンの濃度が、大幅に上昇しているという。

 

こうしたホルモンおよびペプチドの特徴は、

「感情の高まりと関係なく流れる涙」には、

まったく見つからないようだ。

 

 

言い換えるなら、

涙には、涙を流す人の内面の状態を示す

分子的な記録が含まれているということだ。

 

つまり、化学的な視点から言えば、

涙は正直なシグナルと言える。

 

 

ただし、

この分野の科学的研究はいまだ発展途上で、

議論もある点には注意が必要だ。

 

2011年の論文に記されている最初の発見についても、

その一部については再現の試みが失敗に終わっており、

もとの研究を行なったチームからは、

再現実験の方法論について疑問が投げかけられている。

 

 

一方、攻撃性が抑制されたとする2023年の実験は、

ケモシグナルに関する、

より厳密なプロトコルのもとで実施されており、

より検証に耐えるものだと判明している。

 

つまりこのメカニズムの全体像は、

より明確になりつつあるが、

まだ完成形ではないということだ。

 

 

生物学と文化的な

文脈で異なる、

涙の意味

 
 

涙にこれほど多くの機能があるのなら、

我々人間の多くが、

懸命に涙をこらえるのはなぜなのだろうか?

 

 涙が持つ生物学的機能と、

泣くことに関する文化的規範のあいだには

緊張関係が存在し、

 

その矛盾は、

現代的な生活においてますます明らかになっている。

 

 

社会人、あるいは男性社会の文脈では、

感情をあらわにする行為(特に涙)には、

社会的なコストが伴う。

 

科学の世界では、

涙は洗練された意思疎通の一形態であり、

効果があるからこそ発達してきたことを示す

証拠が続々とあがってきている。

 

それにもかかわらず、

我々は、涙を「弱さ」の現れとみなすような、

職場やリーダーの理想像、

ジェンダー規範を築いてきた。

 

 

涙を流す頻度に性差があることを示す研究結果は、

現実に存在する。

 

女性の方が男性よりも泣く頻度が高いことは、

複数の研究によって何度も示されている。

 

こうした差が生まれる理由には、

ホルモンによる部分と、

社会的な許容度による部分があるようだ。

 

 

しかし、

涙を流すことや、他者の涙に反応する

能力を支える神経生物学的なメカニズムは、

 

性別を問わず普遍的に存在するとみられている。

 

男女で異なるのは、涙を流す能力ではなく、

それが許容されるかどうか、という点だ。 

 

 

もう一つ、涙には不思議な側面がある。

 

それは、人が感情からではなく、

芸術作品に感化された時にも泣くことだ。

 

我々は、映画や音楽、小説の最後の1ページ、

楽曲の最後の1音、さらには一度も会ったことがなく、

今後も会う可能性がない架空のキャラクターを

きっかけにして涙を流すことがある。

 

地球上の動物に、

このような行為をするものは他にいない。

 

 

2018年に『Human Nature』に

掲載されたレビュー論文が指摘するように、

 

泣くという反応の対象が、

このように芸術作品にまで拡張されるのは、

社会的な関係を結ぶことで生き残るように進化した

「人の神経系」の構造が、

別の目的で借用されていることを示すものだ。

 

そこでは、

現実世界での苦しみを表すシグナルを発するメカニズムが、

人の生きる意味に関する、

心に強烈に訴えかけてくる作品によっても発動しているのだ。

 

 

言い換えれば、

我々が芸術作品を見て泣くのは、

こうした作品が、進化によって

「広めるべき」「受け止めるべき」と学んだものと

同じ感情に訴えかけてくるからだ。

 

フィクションだとわかっている芸術作品に、

我々が涙を流すほど心を動かされるという事実は、

人間であることの最も驚くべき一面の

一つと言えるかもしれない。

 

 

涙を流す行為が、

進化を経ても生き残った理由

 
 

涙を流す行為が、

進化を経ても生き残ったのは、

たった一つの目的があったからではない。

 

時間の経過とともに、

音声で苦痛を訴えるシグナル、

視覚で共感を喚起する手段、攻撃的行動を抑制し、

他の人との絆を強固にする方策、

化学物質で広く感情を伝える方法と、

多くの目的をいっぺんに果たすことが可能になったからだ。

 

 

 

これらの機能はそれぞれ、

泣くという行為の存続に一役買うことになった。

 

役に立つ道具が、

多くの使用法を集約しているように、

泣くという行為は、これらの機能を集約したのだ。

 

涙を流すことが役に立つ新たな文脈が見つかるたびに、

進化のなかで、

この行為が維持される理由が生まれた。

 

 

進化とは、

得てしてこのような形で作用する。

 

進化は、整然とした思考を持つエンジニアが、

ゼロから解決法を設計するようなものではない。

 

むしろ、古い構造に新たな利用法を追加し

、既存のメカニズムを借用し、

方向転換して新たな目的に沿わせるというように、

場当たり的に働くものなのだ。

 

 

 

<参考: Scott Travers > 

 




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